嘘のような本当の話
知る人ぞ知る、「大船渡市統計書」という冊子があります。人口をはじめ社会・経済動向がさまざまな統計資料によって書かれているものですが、冒頭に「大船渡市の歩み」として昭和27年の市制施行以来の市内の出来事が列記されており、昭和40年10月の欄にはなんと以下のような記述が。
盛-上野間直通急行「陸中号」が運行を開始
大船渡-池袋間を8時間30分で結ぶ高速バス「けせんライナー」の運行開始が平成元年12月なので、これに先立つこと20年余り、そんなすごいことが起きていたとは全く驚きです。
当時の時代背景
昭和40年といえば、中国では文化大革命、国内ではプロ野球第1回ドラフト会議開催、11PMが放送開始、市内では県立大船渡病院が新築開業(もちろん地ノ森の方です)、大船渡高校と大船渡農業高校の分離などがあった年です。
そんな大昔に、乗り換えなしで大船渡から東京へ行けたというのはちょっと信じられない思いですが、一体なぜこのような路線が生まれたのか?興味津々なので調べてみました。
急行 陸中号の変遷
急行・陸中号は、もともと昭和36年10月に上野-盛岡間を結ぶ列車として誕生しました。といっても、新たに投入された車両に命名されたような話ではなく、ダイヤ改正で運行区間が変更になったことに伴って与えられた名称のようです。
ところが早くも12月には陸中号の運行区間が宮古経由へと変わります。上野駅を出発すると、常磐線・東北本線を経由して花巻-釜石-宮古-盛岡というルートでした。
そして昭和40年に入り、ついに陸中号の盛岡駅発着編成が大船渡の盛駅発着に変更されたのです。
旧国鉄のダイヤ担当「盛岡も盛も字が似でっから、これでやってみっぺ」
・・なんてやり取りがあったのかもしれません(いや、無いに決まってます)が、ダイヤ改正で上野-盛岡の区間を含む青森までの急行列車が設定されたことが影響しているようです。
それから翌年10月、仙台-秋田間を走る急行と名前が入れ替わり、盛-上野を結ぶ陸中号は急行「三陸」となりました。
しかしながら、大船渡から直通で東京まで行けた夢の急行も長くは続かず、昭和43年10月のダイヤ大幅改正で、三陸の名称とともに解消されてしまったのです。その間、わずかに3年。当時、この直通列車で盛駅から上京した人が果たして何人いたのか知る由もありませんが、実に貴重な体験だったろうなとうらやましく思います。
おわりに
その後、東日本大震災の影響でJR大船渡線 気仙沼-盛間の鉄道事業は廃止され、BRTにとって代わられてしまいました。
公共交通機関としての不便さはないというところですが、やはり鉄路のないことに一抹の淋しさを感じます。まして再び東京への直通列車を!なんてことは、かなわぬ夢というところでしょうか。