大船渡には、「鬼」と付く地名がいくつかあります。鬼越(おにごえ)、鬼沢(おにざわ)、鬼間ヶ崎(きまがさき)など。
これは、坂上田村麻呂が蝦夷征討にやってきた際の「鬼」伝説にまつわる地名で、三陸町を中心に多く残っています。
また、脚崎(すねざき)、首崎(こうべざき)、死骨崎(しこつざき)など、何だか気味の悪い地名もありますが、これも鬼退治の伝説に関係が深いのです。
坂上田村麻呂の鬼退治
時は平安。朝廷が支配地の拡大を進める中で、朝廷への帰属を拒む東国・北方の人々、「まつろわぬ者たち」は蝦夷(えみし、えぞ)と呼ばれました。もちろんこれは朝廷側が一方的に付けた呼称なので、蝦夷地に住む人々が自分たちをそう呼んでいた訳ではありません。
797(延暦16)年、坂上田村麻呂は桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられます。学生時代には「せーいたいしょーぐん」と字面だけで覚えましたが、考えてみれば蝦夷を征討するという意味だったのですね。ちなみに蝦夷に使われている「夷」とは、中華思想で言うところの、王化されていない未開の地方の民を蔑んだ言葉です。
この頃、大船渡の猪川に「赤頭(金犬・金猪とも)」、陸前高田の矢作に「熊井」、小友に「早虎」と呼ばれる夷狄がいました。いずれも朝廷の言うことを聞かない野蛮人なので、敵だ、悪者だ、『鬼』だというわけです。
807(大同2)年、これらの鬼たちは田村麻呂(おそらくはその配下)によって成敗されました。田村麻呂はそれぞれ鬼の首を埋めた地に観音堂を建立し、祀られた観音像は「気仙三観音」と呼ばれています。
鬼のつく地名の由来
この時の鬼退治に際して、このような言い伝えがあります。
田村麻呂に敗れ、2丈(約6m)もの大岩の上に追い詰められた赤頭は、最後の力を振り絞って岩の上から淵を飛び越え、あっという間に逃げ去ってしまいました。このことから鬼越という地名がついたのだとか。
また、鬼が峠を越えて逃げて来た場所「越鬼来」が、現在の三陸町越喜来という地名の由来という話。
さらに、逃げまどう鬼たちが次々討たれた鬼沢、討ち取られた鬼たちが海に流され、バラバラになった脚が流れ着いたのが脚崎、首が流れ着いたのが首崎、骨と化して流れ着いたのが死骨崎と言われています。
鬼の正体
赤頭や熊井、早虎を敵だ鬼だと言うものの、それはあくまで朝廷側から見た話。東北地方に住む蝦夷という事は要するに我々のご先祖様なわけで、もちろん角など生えてるわけでもなく、自分たちの力で自分たちの土地を守ってきただけの集団だったのかもしれません。「勝てば官軍負ければ賊軍」の言葉通り、戦いに敗れたために正史では悪者扱いという可能性も否めません。
しかしながら、毘沙門天の化身とまで言われた武人・田村麻呂は、東北を侵略に来ただけの朝廷の手先というわけではありませんでした。その証拠に、胆沢の地で抵抗を続けた蝦夷の族長・アテルイらを捕らえて平安京へ向かいましたが、田村麻呂は「殺さずに胆沢へと帰して他の族長を手なずけるのが得策」と進言したのです。結局進言は受け入れられず、処刑は執行されましたが、田村麻呂がただの征服者ではなかったことを示すエピソードです。
実際に坂上田村麻呂が大船渡までやって来たのかどうかは、信頼できる記録が残っていないため不明ですが、大船渡の「鬼滅」伝説の地を辿り、海辺の自然を感じながらいにしえの出来事に思いをはせるのもまた良いものではないでしょうか。