太平洋戦争の爪あと・大船渡の空襲

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太平洋戦争の爪あと・大船渡の空襲

 太平洋戦争末期の岩手県内における戦災として、昭和20年7月14日と8月9日の二度にわたって行われた、釜石の艦砲射撃がよく知られています。被害は甚大で、被災者約1万7千人、死者754人を数えるほどでした。

 実は、この釜石の艦砲射撃があった日と前後して大船渡に空襲があったことは、あまり知られていないのではないでしょうか。ここでは、大船渡に起きた戦災についてお伝えします。

第一次大船渡空襲(昭和20年7月15日)

 釜石に最初の艦砲射撃のあった翌日、大船渡も戦禍に見舞われます。

 大船渡駅南側では、大量に積み上げられていた松根油を入れるためのドラム缶と、停車していた貨車に対し、2機の米軍艦載機が機銃掃射を浴びせてきました。ドラム缶は空だったため発火することはなく、貨車は運転不能となったものの、乗務員は無事でした。

 ところが被害は近隣の民家に及びます。ドラム缶置き場に隣接する間宮修子さん宅では、修子さんのほか9歳の長女と32歳の妹が亡くなっています。空襲の際、家には二女と長男、甥の計6人がいたのですが、空襲警報から逃げる暇もなく敵機が現れたため、家にあるだけの布団を出して潜り込んでいました。甥は太腿に重傷を負いながらも長男を抱えて避難し、九死に一生を得たのですが、布団に残った女性たちは、二女を除いて無残な姿で発見されたのでした。

 修子さんの夫はすでに硫黄島で戦死していたため、5歳の二女と1歳の長男が孤児として残されてしまったのです。

 悲劇はさらに続きます。間宮さん宅から須崎川を隔てて南側にあった高梨ハツノさん宅では、夫が数年前に他界していたため、11歳の長男と3歳の二男との3人暮らしでした。二男をおぶって避難の準備をしていたハツノさんでしたが、1発の機銃弾がおんぶしていた二男の肩をかすめた後、ハツノさんの頸部を貫通し、さらに長男の左眼に当たったのでした。それでも勢いの衰えない弾丸は、長屋の壁を突き破って隣家の水がめに当たり、ようやく止まったというのです。ハツノさんは即死、長男は左眼球を喪失したものの奇跡的に一命を取りとめ、二男は肩に大やけどを負いました。

 そして高梨家でも、11歳の長男と3歳の二男だけが残される結果となってしまいました。

 また、付近にあった三井木船も、同日爆撃を受けています。人的被害はなかったものの、資材倉庫4棟が焼失しました。この4棟だけがピンポイントで被災したことから、焼夷弾の使用も噂されたそうですが、米軍の資料にそのような記載はなく、ロケット弾による着火と見られています。

 赤崎では、前日に起きた釜石の艦砲射撃から逃れて、長崎沖を航行中だった漁船が攻撃を受けました。乗組員3人のうち、末崎出身の村上八郎さんが犠牲となりました。八郎さんはグラマン機の機銃掃射を受け、妊娠7か月の妻と11歳の長女、6歳の長男を残して不意に命を絶たれたのです。

 末崎の細浦でも機銃掃射がありました。魚市場周辺が狙われたようですが、詳細な被害は不明です。

 このほかにも、赤崎の小野田セメント(現 太平洋セメント)大船渡工場や、盛駅、旧気仙病院も機銃掃射を受けたそうです。

 ところで、戦災孤児となった間宮家と高梨家の幼子たちですが、それぞれ兄弟別々に親戚に引き取られ、大変な苦労をされながらも皆それぞれに家庭を持ち、幸せに暮らしたそうです。ただ、何の罪もない子供達がどうしてこんな目に遭わなければならないのか、戦争の理不尽さをつくづく感じます。

 気仙郡綾里村(現 三陸町綾里)では、警戒警報解除に安心して網起こしを終え、港に帰る漁船が襲われました。田浜地区では、桟橋に横付けになった船の上で舵を握ったまま頭部が無くなっていた広田村の男性と、機銃弾が臀部を貫通し見るも無残な姿となった広田村と綾里在住の2人の10代男性の、合わせて3人が犠牲となりました。

 このほかにも、5人の負傷者がありました。陸で負傷した2人の他は、網起こしに出ていた漁師たちでした。

 このとき綾里を襲った米海軍部隊の報告には、「12発のロケット弾と機銃掃射を加え、ロケット弾2発が命中し重大な損害を与えた」とあり、3人の犠牲者の遺体の損傷が激しかった理由が推し量れます。

 また、綾里崎灯台も攻撃され、3発のロケット弾が命中して損害を受けました。戦後の復旧工事で再び灯台に明かりが灯りますが、当時の弾痕が今もなお灯台の外壁に残っているそうです。

第二次大船渡空襲(昭和20年8月9日、10日)

 第一次空襲からひと月近く経った8月9日、大船渡は二度目の空襲に遭います。

 大船渡町では、岸壁に係留した漁船から山手へ逃げる際、機銃掃射を浴びたという船員が犠牲になりました。場所は7月に空襲に遭った三井木船の南にあった岸壁で、付近の製材所の軒下に隠れたところを撃たれたようです。当時は静岡など南の方から小さな漁船が数多く来ていたそうで、これも他県の船だったと考えられます。そのためか、犠牲者の身元は記録に残っていないようです。

 末崎村では小細浦地区が被害に遭っています。この日、石灰石を満載した20隻もの船が小細浦港に避難していました。通常爆弾あるいはロケット弾が使用され、船は皆穴だらけになったものの、幸い沈没船もなく火災も発生しませんでした。周囲の山が高く港が狭いことが功を奏し、十分な攻撃をさせなかったと考えられます。

 そして翌10日、赤崎村の小野田セメント大船渡工場は、7月に続いて二度目の空襲を受けました。機銃掃射とロケット弾と見られる攻撃により、倉庫や設備、セメントサイロ等が被災しましたが、人的被害はなかったようです。破壊されたセメントサイロから大量のセメント粉が巻き上げられ、まったく工場は見えなくなってしまったそうですが、このことが執拗な攻撃を受けずに済んだ一因かもしれません。

 同日、綾里村も同じく空襲されます。綾里国民学校(現 綾里小学校)を標的としたと思われるロケット弾が付近の民家に着弾し、玄関先には直径5m、深さ3mもある大穴があきました。逃げ遅れた妊婦が家の中に隠れていましたが、幸いにも負傷者はいませんでした。

おわりに

 第2次空襲からわずか5日後に、日本の敗戦という形で戦争は終結します。終戦がほんの少しでも早ければ、命を落とし、あるいは人生を狂わされることなく暮らしていられたのにと思うと、やりきれない気持ちになります。

 大船渡で2度あった空襲により、記録では9人の命が奪われました。大都市で起きた焼夷弾によるじゅうたん爆撃のようなものでなく、艦載機による機銃掃射とロケット弾での攻撃でしたが、機銃掃射は「火の玉が連射して一直線に飛んでゆく」、「弾丸が真っ赤に燃えて走る」と表現され、たった1発の機銃弾で一家3人が死傷するなどしています。実際目の当たりにした方はどんなに恐ろしい思いをしたでしょうか。

 今、日本が平和であることのありがたさを強く感じるとともに、世界に平穏な日が訪れるよう願うばかりです。

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