千葉県の北東部、田園風景の広がる多古町に建つ本格的和風邸宅。その敷地の入口に、国の登録有形文化財にも登録されており、住宅としては大規模な、しかも民家では珍しいレンガ造りの門があります。
それが「渋谷嘉助旧宅正門」、大船渡にゆかりの深い人物として知られる渋谷嘉助翁の生家なのです。
渋谷嘉助とは
嘉助は、日本で初めてダイナマイト用に火薬をイギリスから輸入し、財を成した人物です。しかも、地元への多額の財政支援、養育院や寺院の設立、学校を建築するなど、多方面で社会貢献しており、大船渡ともそうした縁があるのです。
嘉助は幕末の1849(嘉永2)年、下総国中村(現千葉県多古町中村)で里正(村長)の家の三男として生まれました。母も地元の名家の出で、村の家々の中では良い暮らしをしていたと思われますが、家の事情により8歳で親戚の油屋に、10歳で母方の木内家に預けられます。そして13歳の時、江戸京橋で銃砲火薬商を営む叔父の元へ預けられますが、明治維新を経て父・理左衛門が他界、その後叔父の相続人に指名され、日本橋に鉄砲火薬店を構えることになります。
その頃、日清戦争が勃発し、嘉助は実業家として活躍を見せ始めます。嘉助の店は火薬類を販売する陸海軍御用達の店になっており、日清戦争で日本に割譲された遼寧省にいち早く職工数百人を派遣しました。
また、英国からダイナマイト用の火薬をイギリスから取り寄せ、当時人力で採掘していた鉱山に用いました。これは日本で初めてのことでした。
嘉助は渋谷鉱業を創業し、明治43年に大船渡湾に面した赤崎村の弁天山で石灰石の採掘事業を始めました。大船渡湾近辺には石灰山が多く、大船渡湾に浮かぶ珊琥島(さんごじま)の大半を嘉助は手に入れていました。
嘉助と珊琥島
ところが、海産物が豊富な水域が珊琥島周辺にあったことから、この島を挟んで両岸の大船渡と赤崎両村の漁民は長い間争いが絶えませんでした。このことに胸を痛めた嘉助は大正3年、両村の共有物として活用するため、島を寄付しようと村の代表者達に提案しました。さらに、その後国の名勝となった珊琥島を、海上公園にしようと多額の設備費まで寄付したのです。両村民とも大いに感激し、共に喜び、争いは解消されていきました。
そして大正15年、珊琥島では嘉助を顕彰して、協同公園命名式と建碑除幕式が行われました。公園名の「協同」は、岩手出身で内務・外務大臣、東京市長を歴任した後藤新平に依頼して命名されたもので、碑の題額の「協同」の2文字を揮毫したのも後藤新平でした。
昭和2年に永年の地方産業開発の功労者として紺綬褒章が下賜され、昭和5年3月6日没、その後従六位に叙せられ故郷の中村に眠っています。
おわりに
嘉助が火薬商でなければ、赤崎で採掘をしなければ、大船渡とのこのような縁はなかったでしょう。自分の商売に没頭するだけでなく、社会に大きく貢献した偉大な先人が当地に関わってくれたことを誇りに思います。その志だけでも見習いたいものです。