日本の電気事業は明治20年、東京電力の前身である東京電燈会社が日本橋に火力発電所を設置し、電気を送電したのが始まりです。そして岩手では明治38年に盛岡電気会社が盛岡市内の77戸に電灯を灯しました。
それから遅れること10年余り、大船渡を含む気仙地域では、大正5年に日頃市村の甲子地内で水力発電が始まったのが始まりです。この事業を行ったのが「気仙水力電気株式会社」です。
気仙水力電気の生い立ち
ことの起こりは、気仙水力電気の創業以前である大正元年、日頃市村に発電所の適地を発見し、翌年岩手県への要請で委託した調査でした。調査の結果、発電出力が150kw、渇水時使用水量15方尺(面積の単位)、有効落差248尺5寸(約75m)、281馬力相当で、電気供給区域内に2,500燈を灯せ、その他の動力に応じてもまだ余力があるとの見込みを得ました。
この調査によって、事業で採算がとれる確証が得られたことから、電気事業に関する設計を盛岡電気会社に委託し、発電所敷地と発電用水路の新設を県に申請したのです。そして同年7月に有効期間30年の使用許可を得ました。
大正3年には株式組織を立ち上げるため、創立事務所を盛銀行内に設け、事務員を常時雇用して事務に従事させました。株式組織として、資本金10万円を2千株に分けて募集したものの、大正元年からの凶作の影響による経済不振で、応募ははかばかしくありませんでした。ちなみに大正7年の公務員初任給が70円なのだそうで、現在で言うと2億6千万円近い金額のようです。
交渉の末、東京市の原田氏が引き受けた800株をはじめ、他町村の篤志家の援助によって株は予定数に達しました。株主総数は143人となりました。
大正4年、気仙水力電気株式会社の設立総会が開催されます。同日重役会が開かれ、互選の結果、泉田健吉が社長として選任されました。その後、会社設立の登記がなされ、5月22日に気仙水力電気株式会社が設立されたのです。
気仙水力電気の発電事業
同年8月には日頃市町甲子地内に発電所工事が竣工し、9月には送電が行われました。発電方式は社名のとおり水力によるもので、発電所は日頃市水力発電所と呼ばれ、設計通りの出力150kwを、日頃市村のほか盛町・大船渡町・末崎村・陸前高田の高田町や気仙村などに供給しました。
大正末期には供給も広まり、需要戸数1,152戸に対し電灯数2,153灯と、1戸あたり2灯近い数の電灯が設置されたことになります。
大正6年には、日中の余剰電力を使って製氷事業も始まり、大船渡は漁業が主要な産業であったことから鮮魚の保存用に需要が高く、水産振興に大いに寄与しました。
その後も工場の動力源などとして電気の需要は高まっていき、日頃市村には第2発電所が設立され、盛町には石炭による火力発電所も開発されています。
電力会社の統合
昭和に入り、2・26事件が起きるなど戦時色が濃くなった昭和11年、気仙水力電気は電力統制により、「三陸水電株式会社」に合併されます。さらに三陸水電は昭和13年、盛岡電気会社から改名を経た「奥羽電灯株式会社」に併合されました。
昭和16年の配電統制令施行により、翌年東北配電会社が設立され、奥羽電灯は東北配電に移管されました。そして戦後の昭和26年、事業は「東北電力株式会社」が継続して現在に至ります。
おわりに
水力発電所が作られたのは鷹生ダム周辺らしいのですが、現在施設は残っていないようです。
水力発電は落差を利用してタービンを回し、電気エネルギーを得る仕組みのため、おのずと設置場所を山中に求めることになりますが、そんな山中の地域から当時最新のインフラが広がっていったというのは興味深いです。
日本で初めて電灯が灯された東京・銀座には、連日大勢の人が見物に訪れたというのですから、当地のフィーバーぶりもかなりのものだったのではないでしょうか。
ちなみに、鷹生ダムで施設管理用の電源にしている発電機の出力は280kw。電気需要が電灯ぐらいしかなかった時代の発電所の出力150kwではダムの管理さえできないと思うと、現代は電気に頼る時代ということを実感します。感謝して電気を使うべきですね。