モスバーガー創業者・櫻田慧が大船渡出身だったとは!

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モスバーガー創業者・櫻田慧が大船渡出身だったとは!

まことに面目ない話なのですが、日本発祥のハンバーガーチェーンであり、国内のフランチャイズ店のシェアがマクドナルドに次いで2位という規模を誇るモスバーガー。タイトルに示す通り、あまりに有名なこの会社の創業者が、まさか大船渡出身だったなんて知らずに過ごしていたのです。市民では少数派かもしれませんが、私と同様「知らなかった」という方もきっといるはず、というわけで株式会社モスフードサービス創業者である櫻田慧氏についてご紹介します。

創業まで

慧は昭和12年、大船渡市盛町の料亭「喜福」に10人きょうだいの末っ子として生まれました。大船渡高校の前身である盛高校に入学しますが、医学部入学を目指して東京の大森高校に転校します。そして結局入学できた日大医学部も、金銭的余裕から経済学部へと切り替えました。

大学卒業後は日興証券に入社。抜群の営業成績を誇り、倍率1,500倍というアメリカ・ロサンゼルスへの海外派遣を勝ち取ります。

ロサンゼルスに赴任した慧は、トミーズというハンバーガーと出会います。立地条件も良くなく、お世辞にもきれいとは言えないような店でしたが、素材と味の良さでいつも繁盛していました。

証券会社は折からの証券不況によって撤退を余儀なくされ、慧は帰国することに。その後皮革問屋への引き抜きにより転職しますが、思うような仕事ができず、問屋の資金繰りが悪化したこともあり退職を選びます。退職後は靴や野菜の販売などを行いますが、これもうまくはいかず、一念発起して起業を決意します。「どうせ仕事をするなら人に感謝される仕事がしたい」と選んだのは、アメリカ滞在時に足繁く通ったトミーズで食べた、ハンバーガーを作ることでした。

証券会社から引き抜いた、吉野氏・渡邉氏と共に、慧はアメリカに渡り、ノウハウを学ぶためトミーズで働きました。無償で熱心に働く慧たちに、トミーズは惜しみなくアドバイスを与えてくれましたが、フランチャイズの営業権では折り合いがつかず、結局独自路線を歩むことにしました。

創業後の苦難そして成功

開店のための資金調達も大きな問題で、銀行からは屈辱的な態度で融資を断られますが、友人・知人をも頼り、昭和47年に東京都板橋区にある成増駅の近くで、モスバーガー1号店のオープンにこぎつけました。店はわずかに2.8坪、6畳間よりも小さなスペースで、慧たちは懸命に働きました。

しかし、文字通り必死になって取り組んでも、なかなか努力は成果に結びつかず、慧は体を壊すなど大変な苦労を強いられ、我慢の時期が続きました。それでも「本当においしいもの、良いものを提供すればお客様は来てくれる」と信念を貫き通し、徐々に業績を伸ばしていきました。

商品開発に対する慧の情熱はすさまじく、飲食店の原価率は30%が目安と言われる中、慧は材料費を最大50%と考えて味を追求しました。そして「テリヤキバーガー」や「モスライスバーガー」などのヒット商品を生み出します。

これまで多くの挫折や苦難を乗り越え、業績を伸ばし、いよいよチェーン店数が1,500店舗に近づいた平成9年、慧はくも膜下出血で帰らぬ人となります。享年61歳、本人もモスの仲間たちも、まだまだこれからと思っていた矢先ではなかろうかと察します。

ここまで慧の生涯について、かいつまんでご紹介してきましたが、彼の波乱万丈の物語については東海新報社で出版した「羅針盤の針は夢に向け」に詳しいので機会があれば是非一読を。

それにしても、櫻田慧氏を知らなかった言い訳になりますが、これほどの偉人をもっとどっかで宣伝してもいいのにと、大船渡市民としては思います。これほど何かに情熱を燃やして生き続けた人の熱い物語を知ってもらう機会を、生まれ故郷が提供しなくて誰がするんだと。 東日本大震災翌年の平成25年、当地にようやくモスバーガーができました。震災で流失し、再建を断念した陸前高田店と入れ替わりのような形です。そこらのファストフードとは一線を画すこだわりの逸品を、創業者生誕の地で慧の物語に思いをいたしつつ食すというのはいかがでしょうか。

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