大船渡出身!日本初の五輪女子マラソン選手・佐々木七恵さん

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大船渡出身!日本初の五輪女子マラソン選手・佐々木七恵さん

 女子マラソンが正式種目となった、昭和59年のロサンゼルスオリンピック。その栄えある日本代表となった一人が、大船渡出身の佐々木七恵選手(結婚して永田に改姓)です。ここでは、日本女子マラソン界の黎明期を牽引した、七恵さんの栄光の記録を辿ります。

マラソンを始めるまで

 七恵さんは、昭和31年、大船渡市日頃市町の石橋地区に生まれました。5男2女の7人兄弟の末っ子として生まれたことから七恵と命名されます。日頃市中学校ではバレーボール部に所属していましたが、住田高校で陸上競技を始めます。

 日体大へ進学後は中距離選手としてインカレ等で活躍しますが、大学卒業後にマラソンへ転向します。昭和54年から始まった第1回東京国際女子マラソンが初マラソンとなりました。その後徐々に記録を伸ばし、日本女子マラソン界のパイオニアと呼ばれるようになります。

転機

 その頃、七恵さんは県立学校の教員をしていましたが、学校の長期休業を利用して上京しては、瀬古利彦選手らを育てた名伯楽・中村清エスビー食品監督を訪ね、競技力を磨きました。

 その甲斐あって、昭和56年のボストンマラソンでは日本最高記録を樹立します。

 しかし、その直後日本で出場したトラックレースで、当時高校生であった増田明美選手に何度も水をあけられて衝撃を受けました。これをきっかけに中村監督の指導をさらに熱心に受けるようになったのです。

 中村監督の指導により、やがて成果が現れます。昭和57年5月のスポニチ陸上5,000mでは、初めて増田選手を破って優勝。6月にはニュージーランドのクライストチャーチマラソンで再び日本最高記録を樹立しました。

 そして昭和59年に開催されるロサンゼルスオリンピック女子マラソン代表をめざし、陸上競技に本格的に取り組む決意を固め、安定した公務員の職を辞して、中村監督率いるヱスビー食品陸上部に入部したのです。

ロサンゼンルスオリンピック

 ロサンゼルスオリンピックでは、「女性にマラソンは不可能」と言われていた時代を乗り越え、女子マラソンが正式種目として採用されました。七恵さんは女子マラソン代表をめざして、昭和58年11月の東京国際女子マラソンに出場しました。このレースには増田選手もエントリーしており、マラソンでは2人の初対決となるはずでした。しかし、増田選手は直前に足を痛めて欠場します。

 七恵さんは先頭に食い下がる我慢のレースからスパートをかけて、結果国内の国際女子マラソン大会で日本人としても初優勝を果たし、代表の座をつかみました。誰もが認める努力家で、辛抱強く耐えるレース運びは、当時ヒットしたNHKのドラマにちなんで「おしん走法」とも呼ばれました。

 その後、増田選手も代表が決定し、2人での五輪出場となりました。

 そして昭和59年8月、いよいよ迎えたオリンピックのレースでは、2時間37分台で完走したものの、結果は19位でした。増田選手は途中棄権しています。優勝タイムは2時間24分台で、当時の日本女子マラソン界はまだ世界との差がありましたが、2大会後には有森裕子選手がバルセロナオリンピックで銀メダルを獲得します。

伝説の17人抜き

 昭和59年1月の全国都道府県対抗女子駅伝に、七恵さんは岩手県チームのアンカーとして出場し、驚異の17人抜きを演じました。この記録は2007年まで23年もの間破られることはありませんでした。

引退とその後

 ロサンゼルスオリンピックの後、中村監督の薦めもあって結婚しますが、家庭との両立は難しいと判断し、昭和60年3月の名古屋国際女子マラソンを引退レースと決めました。

 その名古屋国際女子マラソンでは、なんと2時間33分台という自己ベストに加え、日本人初優勝を果たし、最高の形で引退の花道を自ら飾ったのです。

 現役引退後は2人の子をもうけ、平成3年からヱスビー食品陸上部のコーチ、平成8年から顧問を務めました。また、居住する神奈川県相模原市では、教育委員を務めました。

 そして平成21年6月27日、53歳で直腸がんのため帰らぬ人となります。あまりに早い別れでした。

大船渡ポートサイドマラソン大会

 七恵さんの郷里である大船渡では、七恵さんを顕彰する市民ロードレース「大船渡ポートサイド女子マラソン大会」が昭和63年から毎年開催されてきました。大会は名称を変え男女参加可能となり、競技者の育成とマラソンの普及・拡大に大きく貢献しましたが、第30回大会をもって、惜しまれながらその歴史に幕を閉じることとなりました。

おわりに

 ロサンゼルスオリンピックへの出場後、近所の公民館に七恵さんがやってきて、報告会のようなことをしました。

 今思い返しても恥ずかしい限りですが、色紙がどこで手に入るかも知らない田舎の小学生だった私は、ボール紙を貼り合わせたものにサインをもらおうと持参したのです。そんな私にも七恵さんは優しく接してくれ、嫌な顔一つせずサインをくれたのでした。

 また、七恵さんの住んでいた相模原市と大船渡市とは友好都市なのですが、相模原市のイベントに大船渡から観光や物産の事業者が出店するときには、お子さんを連れて手伝いにきてくれたものです。故郷を離れても、同郷のよしみで一肌脱いでくれる七恵さんの心遣いをありがたく感じました。

 大船渡の田舎から、日本女子マラソン界の黎明期を引っ張って世界レベルへと押し上げる足掛かりを作り、生涯を駆け抜けていった七恵さん。七恵さんの功績はこれからも伝え続けられることでしょう。

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