三陸町吉浜地区を山手へ進むと、五葉山の麓に大窪山があります。今は牛の放牧地として広々とした草地が広がっており、太陽光発電施設の建設で揺れている地域でもありますが、昔は木々が生い茂る密林だったそうです。
霊峰五葉山の麓ということもあってか、大窪山も神の住む山とされ、吉浜に伝わる来訪神スネカも、この山を住み家にしていると伝えられていました。
またこの山は、釜石市と大船渡市の市境に位置し、わずかながら、炭焼きや、椎茸づくりの人々の出入りがありました。入植者が暮らし、学校まであった時代もあるのです。
ここでご紹介するのは、そんな大窪山周辺の小さな沼を舞台にした、哀しい男女の物語です。
会わず沼のおはなし
昔々のある時代、大窪山を隔てて隣り合う唐丹村と日頃市村は大変仲が悪く、日常の交際はもちろん、嫁の行き来もできないほどでした。
そんな折、二つの村の若者と娘とが恋仲となり、人目を忍んで逢瀬を重ねていました。それぞれの村人に知られることは村の掟を破るようなもので、何としても人に知られるわけにはいきません。二人の恋心は苦しみを増すばかりですが、仲違いする村人達を、二人にはどうすることもできませんでした。いつの日か村の人々に知られるのではないかと怯えながら、月日は過ぎていきました。
徒歩以外に頼る手立てのない時代、日頃市と唐丹の間はとても遠い道のりでした。二人の待ち合わせ場所は大窪山にある沼のほとりで、両方の村から上って来る中間地点に位置していました。人々が寝静まる頃を見計らい、沼までの夜道を通う二人は、一層深く結ばれていきました。
春が過ぎ、夏も終わろうとする頃、村人は二人のことに気づき始めます。焦る二人は心を乱し、一層人目を恐れるようになりました。
若者は、会うたびに新しい草鞋を作ってきては、この次来るとき履いてくるようにと娘に渡していました。また娘は、獣や魑魅魍魎の通う危険な夜道を一人歩くために、長い髪を解いて振り乱し、口に櫛をくわえて山道を通いました。
沼のほとりでの二人の憩いのひと時はあっという間に過ぎていきます。二人は、せっかく歩いて来た道のりを、夜明け前までに村へ着くよう引き返さなくてはなりません。それでもしばらくの間は何事も起こらず、二人の交際は続いていきました。
季節はやがて秋となり、夜も冷える時節になりました。ある時、若者がいつもの待ち合わせ場所に先に着き、娘を待ちますが、いつまでたっても娘は姿を現しませんでした。冷たい雨に濡れながら若者は、娘がきっと来ると信じながら、沼のほとりで待ち続けました。
雨に降られて道中時間がかかっているのだろうと思いつつ、一方では不安な予感もしていました。若者との仲が家人の知るところとなり、外に出られなくなったのかもしれません。とうとう来るべき時が来てしまったかと、若者の心は激しく乱れ、頭の中は燃えるようでした。
一層強くなる雨の中、ついに現れなかった娘の面影を思いながら、若者は沼のほとりに立つ一本の樽(なら)の木に近寄ると、護身用の腰刀を抜いて、木の幹に文字を刻みました。
「赤坂の一本小樽が物云うならば 語りおきたや枝もとに」
娘への切ない思いを楢の木に籠め終えると、若者は力なく肩を落とし、着ていた蓑を脱いで沼の中に身を投げました。
ところが皮肉なことに、若者が命を絶ったのと行き違いで娘が現れたのです。しかしそこに若者はおらず、脱ぎ捨てられて雨に打たれるがままとなった蓑だけが残されていました。雨はいよいよ激しくなっていきます。
やがて全てを悟り、絶望した娘は、若者の後を追って、沼に身を投じたのでした。
後日、二人の遺品が見つかったことから、村人達は二人に起こった悲劇を知ることになりますが、沼の奥底深く沈んだ若者と娘、二度と浮かぶことはありませんでした。
それから誰言うともなく、この沼は「会わず沼」と呼ばれるようになりました。
おわりに
会わず沼の現在の姿ですが、沼は土に埋まり、かつて沼だった面影をわずかに残すのみで、浅く小さな湿地帯になっているそうです。
若者が句を刻んだ樽の木もすでにありませんが、沼にある大きな石の隙間には、誰が捧げたものか、二人の霊を弔うように供えられた小銭が見られたそうです。なお、会わず沼は、今では訛って「あび沼」とも呼ばれています。
地元でもあまり知られていないスポットですが、いつか訪れて詳しい様子をアップしたいと思います。