大船渡市日頃市町の長安寺地区にある、その名も「長安寺」。東北屈指の名刹と呼ばれる長安寺の歴史について探ります。
創建
長安寺の創建は今から約900年前の平安時代末期とされます。開祖は安倍一族末裔で気仙郡司であった金為雄直系の正善坊と伝わっています。俗名・次郎丸為正が、18歳で天台宗総本山である比叡山延暦寺東塔で僧侶となって学び、帰郷後に「片杉山 長安寺」を建立しました。創建時は天台宗の寺院ということになります。
本尊
本尊は鎌倉時代の作と伝わる阿弥陀如来です。が、室町時代の火災との関係は定かでありません。
山号の由来
長安寺の山号は「片杉山」ですが、その由来は次のようなものです。
昔、京都にあった高貴な公家の屋敷に、どういうわけか杉の大木の影が映し出されていたそうです。これを嫌った公家が調べさせたところ、その正体は長安寺の境内にある杉の大木であることが判明しました。
そこで、長安寺の杉の木を切るよう命が出されました。しかし、あまりの巨木のため一日で切り倒すことはできず、三分の一ほど切って、あとは翌日に回すことにしました。
ところが次の日、切ったはずの切り口が木くずで埋まり、跡が見えなくなっていました。そして何度切っても、翌日には元通りになっていて、切り倒すことはできませんでした。
どうしたものかと皆思案しているところへ、あし毛の馬に乗った白髪の老人が通りかかり、切った木くずをその場で燃やすよう助言しました。
半信半疑でやってみると、間もなく杉の巨木を倒すことができました。老人は仏の化身だったのかもしれません。
杉の「かたち」を映せる木というところから転じて「片杉山」になったということです。
改宗
室町時代の明徳2(1391)年、22世となる正光坊のときに浄土真宗に改宗し、京都東本願寺の末寺となりました。
焼失
室町時代末期となる弘治2(1556)年、火災により七堂伽藍と宝物が全焼してしまいました。七堂伽藍とは寺院の諸設備という意味なので、つまり一切合切無くなってしまったということです。まさに諸行無常・・笑えませんが。
そして伽藍は江戸時代以降に順次再建されていき、現在の本堂は、明治16(1833)年の創建となっています。
本堂
本堂は建徳2(1371)年の創建と伝えられていますが、前述の火災で消失します。
現在の本堂は盛岡の浄土真宗本誓寺を模して建てられた御堂で、奥行き12間、間口12間のいたるところに欅の巨木が使われています。
正面向拝の大虹梁は長さ3間(約5.5m)、直径2尺4寸(約73cm)の大欅であり、天井の神代杉欄間の彫刻と相まって、気仙大工の見事な仕事ぶりが伺えます。
ちなみに本堂を再建するにあたり、明治初期に伊達候より欅材を無償にて貰い受けたのだそうで、皮肉とも言うべき何か深い因縁を感じます。
山門
長安寺で名高いのが総ケヤキ造の山門で、高さが17.5mもあります。仙台藩禁制のケヤキ材を使ったことなどから取り壊しの命を受けますが、廓念坊秀諦(かくねんぼうしゅうたい)住職のおかげで事なきを得ました。
しかし、以後手を加えてはならぬという条件付きだったため、現在の「袖なし」「開きなし」という姿になっています。
山門取り壊しの撤回という大役を見事に果たした秀諦住職のおかげで、今日の長安寺があるのです。
太鼓堂・鐘楼堂
寛保2年(1742)年に建立されました。太鼓堂の階上には大太鼓が吊るされ、時を告げるため打ち鳴らされました。
ちなみに昭和47年、地域の若者が新しい郷土芸能を作ろうと結成し、東京神田の助六太鼓に入門して誕生したのが「長安寺太鼓」です。
隠居所
明治42年に建てられた茶室です。
境内
樹齢400年を超えるとされる「長安寺大イチョウ」や市の天然記念物「奥州しだれ桜」といった名木もあります。また、例年2月頃、市内に先がけて福寿草が咲き始めます
有名人
江戸時代後期には、奥州市水沢出身の医者で蘭学者の高野長英が、幕府の追手を逃れて長安寺に身を隠していたとも伝えられます。他にも、幕末の水戸藩出身で天狗党首領であった武田伊賀守が山門の二階に書置きした跡もあるそうです。
おわりに
深い歴史の長安寺でしたが、室町時代の焼失がなければさらに詳しい歴史が残っていただろうにと思うと、残念でなりません。それでも現存する山門や伽藍は威風堂々たるもので、見る者を圧倒します。市内にいても見たことのない方は多いはず、一度拝観してみでけらっせん。