大船渡市内だの岩手県内だのと言わず、東北屈指との呼び声も高いのが、日頃市町は長安寺地区にある、その名も「長安寺」。なんとお寺の名称がそのまま地区名になっているのですが、それもそのはず、付近一帯は大小民家の敷地を含め、広範囲にわたってお寺の所有地となっているそうなのです。
長安寺の変遷
長安寺の創建は今から約900年前の平安時代末期とされ、開祖は安倍一族末裔で気仙郡司であった金為雄直系の正善坊と伝わっています。正善坊は天台宗総本山である比叡山延暦寺で学び、帰郷後に「片杉山 長安寺」を建立しました。つまり、当時は天台宗の寺院でした。片杉山の山号は、境内にあった2本の大杉のうち1本を使って本堂を建てたことに由来しているのだそうで。しかしながら室町時代の明徳2(1391)年、22世となる正光坊のときに浄土真宗に改宗し、京都東本願寺の末寺となりました。
その後、室町時代末期となる弘治2(1556)年、火災のため7堂伽藍・宝物が全焼してしまいましたが、江戸時代以降に順次再建されていき、現在の本堂は、明治16(1833)年の創建となっています。
東北随一の山門
さて、長安寺を東北屈指の古刹たらしめるのが、その山門(楼門)です。寛政8(1796)年に着工し、寛政10(1798)年に現在の形となったのですが、入母屋造の銅板葺、上層部には高欄、外壁は真壁造の白漆喰仕上、そして総ケヤキ造で高さが17.5mもある壮大な二重楼門となっています。
ところが豪壮な上層部に比べ、下層部は門扉や袖塀なしで柱が立つだけの、実に貧弱ともいえる中途半端な姿となっています。その足元の未完成ぶりは、上層部のフォルムと相まって「機動戦士ガンダム」のジオングをほうふつとさせます。実は、このような姿をしているのには次のような理由があるのです。
山門が未完成の理由とは
長安寺の山門には当時仙台藩ご禁制だった欅(けやき)を使っていたほか、伊達の殿様のおわす仙台にもないような高楼であったことから、藩に知れるや大問題となり、山門取り壊しの命が出されたのです。
これを受け、長安寺脇寺である西方寺の廓念坊秀諦(かくねんぼうしゅうたい)住職が、藩に赴き釈明を行う大役を担ったのです。
「ば!あれは山門でねぇでば、釈迦堂だでば。使ってる材も欅でねぇのす、槻(つき)の木なのす。」
と、ケセン語で釈明したかは不明ですが、赤味がある欅材に対し、槻材はやや青味を帯びていることから「青欅」とも呼ばれるのだそうで、素人には見分けるのが難しいことをうまく利用して欅材ではなく槻材を建築に使ったこと、また山門ではなく釈迦堂であることを堂々主張し、御評定所で繰り返される取り調べや青竹百叩きの拷問にも負けず、とうとうお役人を言いくるめたのだとか。
そして住職の粘り強い釈明が奏功し文化4(1807)年、以後手を加えてはならないという条件で取り壊しを免れたため、現在の「袖なし」「開きなし」の門となったということです。
あの歴史上の人物も!
江戸時代後期には、奥州市水沢出身の医者で蘭学者の高野長英が、幕府の追手を逃れて長安寺に身を隠していたとも伝えられます。ちなみに高野長英は五葉山に潜伏していたという話もあります。
おわりに
長安寺が誇る、東北随一と言われる山門についてご紹介しました。
境内には樹齢400年を超えるとされる「長安寺大イチョウ」や市の天然記念物「奥州しだれ桜」といった名木もあります。2月に入れば、市内に先がけて福寿草が咲き始めることから、よく地元ニュースにも取り上げられます。
山門だけでなく、四季折々に見どころのある長安寺に出かけてみてはいかがでしょうか。
ちなみに宗派の関係もあって、御朱印はないそうですよ。