気仙大工と呼ばれる、優れた技能集団を生み出した当地の造船技術を今に伝えるべく、気仙船匠会によって建造された千石船の復元船、それが「気仙丸」です。ここでは、平成4年に開催された「三陸・海の博覧会」に合わせて建造・出展され、令和3年には陸上展示となった気仙丸についてご紹介します。
千石船とは
元々は、その名の示す通り米1,000石を積載できる和船のことを指して「千石船」と呼び、大型の貨物輸送船の基準としていましたが、後に1本の帆柱と横帆で帆走する仕組みの「弁才船」の別名として、積載量に関係なく使われるようになりました。弁才船が普及するまでの和船は、櫓をこぐのが主な動力だったため、帆走は劇的な変化だったといえます。
スペック
積石数:350石積
長さ:18.7m
幅:5.75m
深さ:1.7m
高さ:5m
帆柱:17m
帆桁:11.5m帆の広さ:畳85枚分
どのようにして生まれたか
当地方は、気仙大工と呼ばれる卓越した技能を持った人材を多数輩出しており、古くから漁労で生計を立てていた地域であることから、造船についても高い技術を持っていたとされます。
その造船技術を後世に伝える目的で、地元の船大工有志「気仙船匠会」の手により、太平洋沿岸を往来した千石船が復元されることになりました。
商工会議所が中心となって資金集めに奔走し、気仙丸は平成3年に完成しました。そして平成4年、岩手県内で開催された三陸・海の博覧会への出展を果たし、ジャパン・エキスポ大賞を受賞したのです。
気仙丸のその後
三陸博への出展後は市内の港に係留され、夏まつりなどのイベントやドラマの撮影などに使われましたが、常設で見学できるような状態にはなっておらず、その存在を活かしているとは言いがたい状況でした。
そして平成23年3月の東日本大震災による津波により被災します。津波の発生時、赤崎町の蛸ノ浦地区に係留されていた気仙丸でしたが、繰り返し押し寄せる津波によって周囲の船が流されたり転覆したりする中、何度も波に揉まれましたが、転覆することなく耐え切ったのです。一面がれきの海と化した湾に、真っすぐ帆柱を建て一人堂々と浮かぶ雄姿は、災害に負けず復興に向かって進む地元民の気概を表しているようでした。
震災を無事乗り切った気仙丸ですが、年間の維持費は200万円を超え、木造船の寿命は15年程度と言われる中で次第に老朽化が進行していきました。そして建造から30年を迎え、ついに大きな決断を下すことになります。
陸上展示への道
気仙丸には抜本的な修理が必要でしたが、建造を主導した商工会議所と市の協議により、海上での利活用は断念されました。代わって出た案は、大船渡駅周辺地区の未利用地に陸上展示するというものでした。そして補助金等によって7,000万円の事業費が確保されたことで、新たな活用法へと舵を切りました。
気仙丸は最後の曳航を経て市内の造船所に陸揚げされた後、修理が施されました。また、船体をガラスコーティングすることで耐久性が上がり、20年を超える長寿命化が図られました。
そして令和3年9月、大船渡駅にほど近い商業街区の一角に気仙丸は据え付けられ、10月にお披露目されました。気仙の船大工の優れた技術を後世に伝えるのみならず、東日本大震災津波にも耐えた「奇跡の船」の震災学習への活用が期待されています。残念ながら内部見学はできませんが、構造に興味がある人向けの展示方法があればいいなと。
夜間ライトアップ
県道沿いに鎮座する気仙丸ですが、夜にはライトアップの効果で存在感を増します。
さらに、観光物産協会によるイベントで、海に漕ぎ出すイメージのイルミネーションが施されました。こちらは期間限定でしたが、周辺は多くの人で賑わいました。常設とはいかないまでも、定期的に開催してほしいものです。
まとめ
・江戸時代の文化を復元させた船が気仙丸。千石積めなくても千石船です
・陸上展示されているので、大船渡駅周辺に行けばいつでも見られます
・夜間のライトアップは迫力が増します