世に道祖神は数あれど、大船渡には藩政時代の血なまぐさい言い伝えにまつわるものがあります。
ここでは、峠の頂上にひっそりとたたずむ、こわーい呼び名のお地蔵さんについてご紹介します。
首切地蔵とは
大船渡市日頃市町の小通(こがよう)地域にある、旦那長嶺という名の峠の小高い場所に、2体のお地蔵さんが祀られています。一見、田舎ならどこにでもある風景なのですが、よく見ると他のものとは大きく違うところが。それは・・
2体ともお地蔵さんの首が切れているのです。
これが「首切地蔵」と呼ばれているのですが、その名の由来には古い言い伝えがあるのです。
首切地蔵にまつわる言い伝え
その昔、奥州千葉一族(地頭御家人であり幕府の奥州総奉行であった葛西氏の一門とも言われる)の新沼氏が、安芸守綱清の時代に気仙郡日頃市の地に移り、松館城主として周辺を治めていました。新沼氏はここを拠点に、猪川筑館・赤崎館・綾里平館・吉浜城などに一族を配して繁栄していたそうです。
さて、綱清の次男である内膳正綱定が綱清の跡継ぎとなりましたが、文明年間、葛西氏の命によって越喜来本丸城主多田氏の領地への進駐があったことから、新沼氏と多田氏の間には抗争がありました。
そんな中にも関わらず、慶事ということで越喜来多田氏の館に招かれた綱定ですが、ただならぬ様子を感じて早々に食事を切り上げ、帰途に着きます。
大窪山を越えて領地である日頃市に入り、現在の鷹生ダム周辺にたどり着いたところで安堵しましたが、無事を喜んで石の上で舞い上がったことから、その石が「舞々石(まいまいいし)」と名付けられたそうです。
さらに山道を下りながら、小通の旦那長嶺にさしかかったところ、路傍から突然2人の侍が現れ、綱定の乗る籠の左右から槍を突き刺して命を奪ったのです。
城主の暗殺に心を痛めた地元の領民がこの場所に地蔵尊を祀って供養してきたのですが、不思議なことに、いつの間にかお地蔵さんの首が切れてしまいます。
何度お地蔵さんを取り替え据え直しても同様に首が切れてしまうのだそうで、そこから「首切地蔵」と呼ばれるようになりました。
現在の様子
そして旦那長嶺の峠ですが、現在では舗装された市道が通り、周辺は森林の伐採が驚くほどのペースで進んでいることから、大分ひらけた印象を受けます。
しかしながら車の通りは少なく、日が暮れるのも早いため、車ならまだしも、徒歩での夜間通行は控えたくなるような場所です。
件の首切地蔵は、峠を通る市道からさらに上ったところに祀られています。周辺は木々が生い茂り、放っておけば草生すような場所ですが、地元の方が手をかけてくれるおかげで、花が飾ってあったりして小ざっぱりした印象を受けます。
おわりに
日頃市の首切地蔵についてご紹介してきました。不思議ないわれのある場所で、肝試しにはおすすめしませんが、興味のある方は是非訪れてみてはいかがでしょうか。
おまけ・わたしの首切体験談
今回の取材のため、首切地蔵の撮影に向かった訳ですが、正面に見えるお地蔵さんの陰に隠れるように祀られている小ぶりな2体目のお地蔵さんを撮影しようと回り込んでみると・・
ギャー!首が落ぢでるゥゥーーー!!
地震の影響か台風の仕業か、お地蔵さんの首が後方に転がり落ちているではありませんか。
ですが、そのうち近所の誰かに見つけてもらって手ぬぐいもろとも直してもらえるだろうと、「触らぬ神に祟りなし」を決め込んでそそくさと帰路につきました。
そしてその晩のこと。晩酌を終えて気分良くうたた寝していると、突然の腹痛が。何度かトイレに駆け込みながら何か悪いものでも食べたかと散々考えましたが、思い当たるようなものはありません。ここでつい思い出してしまったのが昼間の一件。
首切地蔵の祟りじゃーー!
と、思い込むつもりはありませんでしたが、何となく心の奥に引っかかるものがあり、数日モヤモヤしていましたが、思い立ってもう一度現地を訪れることに。
サッと現地に乗りつけると足早に階段を上り、思ったほどの重量もない首を持ち上げて土をはらい、胴体の上に据え付けて作業完了。あとは長居無用とばかりに立ち去ってモヤモヤは解消しました。
お腹もその後何ともありませんでしたが、あれは一体何だったのか・・というのは考えすぎですね。