オットセイ王は大船渡の偉大な事業家・篤志家だった!水上助三郎の生涯

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オットセイ王は大船渡の偉大な事業家・篤志家だった!水上助三郎の生涯

世界に誇れる大船渡出身者と言えば、新沼謙治・・よりはモスバーガーの創業者である櫻田慧やセガでスペースハリアーやアフターバーナーIIを生み出した鈴木裕、そして今をときめくロッテの佐々木朗希の名が挙がりますが、忘れてはならない郷土の偉人・水上助三郎(みずかみ すけさぶろう)の話をば。

水上助三郎といえば、「オットセイ王」の名で知られているのですが、何故オットセイ?と不思議に思っていました。碁石海岸にトド岩なんて名の岩礁があるくらいなのでトドが居ついたことがあったかもしれないし、現に東日本大震災の翌年には大船渡市魚市場の岸壁付近にオットセイが現れて話題となりましたが、王様を生み出すぐらいのオットセイが100年前の大船渡にはいたのか!?謎は深まります。

助三郎は元治元(1864)年2月28日、気仙郡吉浜村の千歳部落に生まれました。戸数20余りの小さな漁村でしたが、父の助十郎が半農半漁をこなす、比較的裕福な家だったようです。

明治14(1881)年に家出して東京へ出ると、せんべい屋や養鶏場で働きますが、呼び戻されてソデと結婚します。しかし明治20(1887)年には再び上京し、小笠原で天日による製塩法を学びますが、2年後には見切りをつけ、洋種短角牛2頭を買って帰郷しました。その際、東京から徒歩で連れ帰ったとも言われています。

明治24(1891)年から2年間、捕鯨船に乗り込み、マッコウクジラの漁労に従事しています。そして明治28(1895)年、「権現丸」を借りて三陸沖合へラッコ・オットセイ狩りに乗り出しますが、わずか9頭しか捕獲できませんでした。

今ではとても信じられませんが、当時は北海道から三陸はおろか房総沖までオットセイの大群が回遊していたのだそうです。その群れを追って欧米諸国の密漁船が出没していたのですが、助三郎は弟の斎之助と二人で帆船を造り、予備役・後備役の陸海軍人を乗組員に雇い、彼らの猟獲方法を実地で研究しだしました。

そして明治29(1896)年、水上兄弟は洋式の帆船「宝寿丸」を造ります。今度は各自銃手・会計・漁猟長となって出漁し、研究の甲斐あって162頭の捕獲をあげました。毛皮の需要が盛んだった時代だったため、ラッコ・オットセイ猟の利益は大きいものがありました。

さらに明治30(1897)年には74トンの「千歳丸」を建造し、翌年北海道は千島沖まで出漁し、成功を収めました。明治33(1900)年には樺太でさけ・ます漁をしながら、なまこやほたて貝の採取・加工を手がけました。その後千島列島北東端の占守島(しゅむしゅとう)やカムチャツカでもさけ・ます漁を始めます。

明治36(1903)年には、千歳丸・第2千歳丸の2隻で、4,200頭という驚異的な捕獲を記録し、「オットセイ王」の名声を得ました。大正天皇の東北行啓の際には、拝謁が許され、令旨と御下肢品を賜るほどだったのです。この頃、宮城県の松島湾でうなぎの養殖を始めます。

岩手県は日本一の生産量を誇るあわび大国ですが、中でも助三郎の郷里である吉浜村では特に盛んでした。しかし、乱獲がたたってあわびが小型化し、年々水揚額が減少していました。助三郎は、漁業組合の規約で三寸(約10cm)以下のあわびの捕獲を禁じ、自ら監視役をつとめ、漁獲日数も減らした結果、水揚額の増加に成功しました。その後、村の漁業権を借り受け、捕獲するあわびの大きさを三寸五分以上としました。

そして3年目に年額6,000円、4年目には8,400円、5年目に12,000円、とうとう6年目には16,000円という巨額の収入を得ることができました。また、あわびの形を大きく、品質も改良し、今や高級食材として知られる「吉浜(きっぴん)あわび」の名をあげたのです。

また、松島湾の入浦にあった国有林120ヘクタールを払い下げ、村民にも分収林として魚貝養殖の目的で払い下げています。

明治44(1911)年に日英米露で締結されたラッコオットセイ保護条約によってオットセイ猟が廃止になると、今度はメキシコ沿岸でのあわび漁に着目し、カリフォルニアおよび太平洋一千哩の海面共同経営を契約。漁夫を送り事業を始めましたが、5年ほどで廃業しています。

大正6年(1917)からは、日本三大ブリ漁場として知られる小壁、大建などの建網漁場を経営し、ワカメ加工にも着手して三陸漁業の振興に大きな足跡を残しました。

組合の積立金に自ら9,200円を支出して、道路の改築や学校の増築にあてたり、小学校の敷地を寄付、陸前高田は米崎村の道路改修費の寄付、戦時や東北地方凶作の際の寄付・義援金など8,000円に達しています。

大正11(1922)年7月30日、東北大学付属病院で58年の波乱万丈の生涯を閉じます。死の直前には緑綬褒章を贈られています。

キッピンあわびのブランド化に干鮑づくり、松島のかき養殖や短角牛の普及等々、現在につながる数多くの事業をなしただけでなく、教育や福祉にも力を注いだ偉大なる先人にもっと光が当てられてしかるべきと思います。山あり谷あり激動の人生を送り、各地で豪遊した伝説も多く、硬軟併せ持った助三郎ならば、大河ドラマになっても1年分の脚本が書けるのではないでしょうか。

実は来年、令和4年には助三郎の没後100年を迎えます。助三郎の生家は今も残っており、彼の活躍を偲ばせる当時の船の写真や、メキシコから記念に持ちかえった巨大なアワビなどの遺品があります。また、旧吉浜小学校跡地には胸像が、地元千歳地区には顕彰碑が建てられています。大河ドラマに抜擢されて聖地巡りで混みあわない今のうちに、水上助三郎生誕の地・大船渡へ是非どうぞ。

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